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日本だって大変なのになぜ海外ばかり支援するのか?日本を見捨てるのかという問いに対する答え―帰責モデルから

 
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「日本だって大変なのになぜ海外ばかり支援するのか?日本を見捨てるのか」

国際協力をしているとよくこんなことを言われることがあります。

 

よくある答えが「その人は結局何もしていないから気にせず行動し続ければいい」というもの。

もちろんこれは一理あるし、多分そうなのだと思う。

ただ私は自分なりに答えを出したいと思い、学生時代はグローバルジャスティスを専攻した。

今回は、この問いの答えを私なりに考察していきたい。

 

発展途上国の人々への責任はあるのか?

「日本だって大変なのになぜ海外ばかり支援するのか?日本を見捨てるのか」

この問いに答えるキーワードは「責任」である。

 

帰責モデル

現在発展途上国と呼ばれている国々が、このような現状に置かれている根本原因は不均衡な関係を強いる「近代世界システム」にある。

さらに、ウォーラーステインが言及しているように、このような世界システムを作り上げたのは、帝国主義時代に植民地支配をして「列強の論理」を押し付けた現在「先進国」と呼ばれている国々にある。

 

以上のように過去の行為とその行為者を特定し、遡及的に責任を適用させる考えを「帰責モデル」と呼ぶ。

 

グローバルジャスティスの第一人者、トマス・ポッゲもこの帰責モデルを援用して論を展開している。

 

外国人が危害を受けているのが、その継続的な形成と強制的な押し付けとに我々が物理的に関わっているひどく歪んだグローバル秩序を通じてであるなら、これ(=発展途上国の人々を見過ごすこと)は正しい態度ではないだろう。

我々は外国人の被る不当な危害から無関係でいられるが、それは、それらの危害が我々自身の行いではない限りにおいてのことである。その場合なら、我々の道徳原理は同胞の優先を、またもっと一般的に近親者の優先を完全に許容する。(…)しかしながら、外国人の被っている不当な危害が我々自身の行いである場合には、外国人も同胞も同じ扱いである。

 

ポッゲの基本的立場は日本にも多いリバタリアンである。

リバタリアニズムの基本的な主張は「なんでもかんでも国に保証を懇願するのはお門違いである。自律した存在である以上は、自分の行動は自分で責任を取らなければならない」というもの。

だから、多くのリバタリアンは「途上国が途上国のままでいるのも怠けていた彼らの自己責任である」と切り捨てる。

 

しかし、ポッゲはリバタリアンながら、「義務」に順位づけをすることでリバタリアニズムの枠内で国境を越えた義務・責任・正義を論じることに成功している。

ちなみに、ポッゲが峻別した義務は以下の通り。

(1)他者に悪事を働か(不当に害し)ないという消極的義務
(2a)近親者を悪行から保護するという積極的義務
(2n)同胞を悪行から保護するという積極的義務
(2z)無関係の外国人を悪行から保護するという積極的義務
(Pogge 2010:212-213)

 

これらの義務は上から順に優先順位が高くなる。

基本的には伝統的なリバタリアンと同じように、自分に近しい存在から助ける義務があると述べている。

しかしポッゲが今までのリバタリアンと圧倒的に違うのは、優先順位の一番上に「他者に悪事を働か(不当に害し)ないという消極的義務 」を持ってきたことだ。

ポッゲは、途上国が途上国のままであり続けるのは現在「先進国」と呼ばれている国々だからということを認めている。(世界システムとはアプローチ方法は違うが根本的には似たようなものだ)

だから、他者を不当に害した先進国という存在、およびそこに生きている人々は、途上国と呼ばれる国々にいる人々に責任があると考えたのだ。

 

 

 

 

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