カンボジアにある小さな英会話スクールの大きな挑戦

抑圧者の眼差しの果てに―被抑圧者が被抑圧者であり続けてしまう仕組み

 
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私は以前から、先進国の人々が途上国の人々に対して無意識に向ける「眼差し」に強い問題意識を持っている。

この眼差しによって、ただでさえ世界システムによって周縁に追いやられ収奪されている彼らが、精神的文化的にも抑圧されているからだ。

今回は、被抑圧者が被抑圧者であり続けてしまう理由を、先進国(もしくは中央)の人々が無意識のうちに向けている眼差しについて考察していきたい。

 

被抑圧者が被抑圧者であり続ける理由

まずはじめに「眼差し」そのものについて考えていくことにしよう。

この眼差しについて、私は以前まとめたことがあるのでそこから引用する。

普段いたるところで交わされている「眼差し」にはどんな意味があるのだろうか。当然のことだが、交わされている眼差しの両極には「見る者」と「見られる者」が存在する。「見る者」と「見られる者」の両者がもとから同じコミュニティ内にいた場合、換言すると、もとから何らかの関係性が築けている場合には、眼差しには何の意味もない、もしくはあったとしても「見てくれているという安心感」など正の感情を抱ける。

しかし、コミュニティの「外部者」であるにも関わらず、他者に対して無遠慮な眼差しを向けた場合にはそうはいかない。その場合には眼差す者と眼差されている者に厳然たる隔たりがあり、その隔たりが構造的な抑圧を生み出す

 

簡単に言ってしまえば「知らない人にじろじろ見られたら、なんかある(悪い意味で)と思うよね」ということである。

当たり前のようだが、実はこれは大きな国際機関ですらやってしまいがちな行いでもある。援助者の眼差しについては後述していくことにしよう。

 

抑圧者の眼差しは文化をも変容させてしまう

抑圧者の眼差しは単に他者に負の感情を抱かせるにとどまらない。

場合によっては文化すら変容させてしまうだけの影響がある。

ここでタイのカヤン族(いわゆる首長族)の例を出してみることにしよう。

カヤン族の女性は首にリングをはめて首を伸ばし、首が長ければ長いほど美しいとされる文化を築いてきた。

しかし近年はそれが恥ずかしくなってリングを外す人も増えているそう。観光客が彼女たちに対して向ける「無遠慮な眼差し」に耐えられなくなったからだ。

観光学者の宮本もこの現象を言及している。

 

訪れたナイソイ村で教師をしている 20 代の女性は、数年前にコイルを外したという(コイルを巻くことを強制されているわけではない)。彼女の話では、フランスやイギリスなどの外国人観光客が増えて、その姿を見るようになってから、コイルをつけない女性が増えたという。彼女自身、外国人観光客を見るようになって“コイルをつけないことの普通さ”を感じるとともに、コイルをつけた姿を“恥ずかしい”と感じる気持ちが生まれ、コ
イルを外したのだという。(…)

彼女がコイルをしている姿を恥ずかしいと感じ、外したのは、コイルをした村人に対する観光客のまなざしに、前近代的で奇妙な姿をした者に対する好奇の視線(異なる文化に対する尊重や称賛ではない)を感じたからにほかならない。
(宮本 2012:96)

 

観光客も別に彼女たちを軽蔑しようという意図はなかったと思う。しかし彼らの無遠慮な眼差しが結果的にカヤン族の伝統・文化を変容させてしまったのである。

 

援助者による眼差し

この眼差しは何も観光客ばかりではなく、観光客よりはるかにそうした態度に配慮しているだろうと思われる援助機関ですら、無遠慮な眼差しを支援対象者に向けてしまうことがある。

そればかりではなく、援助機関の場合はそうした眼差しを通して見たある意味歪んだ世界を発信してしまうのである。

 

「恵まれない子どもたちのために」

 

こんな文言を耳にしたことはないだろうか。もちろん、医療にアクセスできる人が限られていたり教育の機会を与えられない子どもももちろん存在する。

ただ、みんながみんなそういった生活をしているわけではない。(現に、プノンペンの貧困率は2004年の時点でわずか5%である。)

そうした人を支援する必要はもちろんあるが、わずか5%しかない人々をあたかも全員そういった暮らしをしているかのように伝えてしまうと、中央の認知に「歪み」を生んでしまう。

 

そういった歪んだフレームを通して見られてしまっているからこそ、今でもカンボジアは地雷や紛争などといったディスクールで語られている。

 

抑圧者の眼差しによる「劣位化」

カヤン族の例でわかるように、今まで誇りを持っていたものでさえも外部者からの歪んだ眼差しが強ければ次第に抑圧者の価値観や文化に自らを合わせてしまう。

抑圧者の眼差しが彼らの文化や能力を縮減させてしまうのである。

これは紛れもなく抑圧者による被抑圧者の「劣位化」と言えるだろう。

 

抑圧者の影とともにある

さらに驚くべきことに、抑圧者によって眼差された彼らは、次第に抑圧者に羨望すら覚えていく。

『被抑圧者の教育学』の著者パウロ・フレイレはこの現象をこう述べている。

 

被抑圧者は抑圧者を自らの内に「宿し」、抑圧者によって「注入された」抑圧者の「影」と共にある

 

被抑圧者は抑圧下の中で、次第に抑圧者に憧れていくという倒錯的な感情を抱いていく

 

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